創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(195)ロン・ホランド氏とのインタヴュー(1)

Lois Holland Callaway Inc. Executive Vice-President, Secretary

30歳近くまでトラックでアイスクリーム売りをしていて、それから「コピーライターにでもなろうか」と考えたところが、うれしい。日本にもこういう大人っぽいライター志望者がふえてくれと、ライターの層が厚くなる---と、40年前にぼくは考えていたらしく、彼とのインタヴューの前書きに記していた。



7年でPKLを捨てたロイス氏とホランド

DDBを飛び出してPKL(パパート・ケーニグ・ロイス)を創ったジョージ・ロイス氏が、7年目にまたもやPKLを捨て、ロイス・ホランドキャラウェイ社をつくったと聞いた時、ぼくは妙な気分になった。たった7年で自分が創設した組織が逆に自分の首を締めるような結果になるというようなことは、ちょっと信じられなかったからである。しかし、考えてみれば、ありうる話でもある。組織は2人きりでつくれるものではないのだから---。
ぼくの興味は、ロイス氏と行動をともにしたロン・ホランドというコピーライターに向かった。ぼくたちは高級レストラン---〔フォー・シーズンズ〕で会った。

chuukyuu 「あなたが代理店を始めたのはいつ?」
ホランド 「そうですね。ちょうど2年と2週間前ぐらいかな。1967年の10月だったと思います」
chuukyuu 「創業時の様子を聞かせてください」
ホランド 「建物についてですか、代理店についてですか?J
chuukyuu 「そう、建物の様子を---」
ホランド 「物理的な意味でですか?」
chuukyuu 「ええ、そう」
ホランド 「スタートしたばかりのころは、一部屋しかありませんでした。ニューヨークでもっとも騒々しいところじゃなかったかな。あそこは4日後、ご存じのこの28階のオフィスに移りました。ここに移ったのは、このバルコニーにすごく魅せられたからなのですよ。あたり一面が見わたせる大きなパルコニーで、セントラル・パークはむろんのこと、ニューヨークの町が手にとるように見えるんです。実際、ずっと前からここに移ろうって会議で決めていたくらいですから。
その後、16階があいたので、そこもとりました。ジョージとジムと私は28階で仕事をしていましす。そして、27階がメカニカル・デパートメントに当てられ、16階はAES会計課、トラフィックの各部門に当てられています」
ジョージ・ロイス氏のきれい好きには定評がある。L・H・C社のオフィス・レイアウトも美しく整えられていた。


上からの圧力が強い代理店ではよい仕事はできっこない

chuukyuu 「ロイス氏、キャラウェイ氏を知るようになった経緯は?」
ホランド 「1961年、29歳だった私は、アイスクリーム・トラックの運転手をしていたのですが、これは年齢のことを考えるとあまりよい商売ではないと考えていました。
ちょうどそんな時、兄に『アイスクリームなんか売っていないで、いっそ広告屋にでもなったら』といわれたんです。まだできて間もない広告代理店があって、兄はそこのディリー・ビーンの広告を見ていて、その広告がよいものだと考えたので、それではと、ショート・ストーリーを2、3本書いてジュリアン・ケ一ニグに送ってみたのです。
あとはトントン拍子に進みました。ケ一ニグと面接し、そのまま採用となったわけです。むろん、間もなくロイス氏に紹介されました。
私は、アンスタント・アカウント・エグゼキュテイブとして採用されたのですが、それもつかの間で、クビになったのです。
そして、その日のうちに今度はコピーライターとして採用になりました。フレデリック・パパートとジュリアン・ケーニグ、ジョージ・ロイスといった業界切ってのベテランのもとで、私は有意義な7年間をPKLで過ごしました。
しばらくニューヨーク本社で働いた後、ロンドン支社設立のため英国にまわされ、ロンドンで1年過ごして帰国しました。こうして再び本社で幾つかのアカウントを担当するようになったのですが、その中の一つがクェーカー・オーツで、ジム・キャラウェイがアカウント・スーパパイザーでした。これがキャラウェイとのそもそもの出会いです」
chuukyuu 「あなた方3人が代理店を開こうとした動機は?」
ホランド「私たらは、新しい種頬の代理店を開いたらきっとうまくいくと信じていたんです。それに、立派な広告をつくれるかどうかということが、よい代理店と悪い代理店とを区別する唯一のものだということは否定し得ないことであると主張する代理店をつくる余地があると考えたのです。そして、もし私たち3人が私たちのクリエイテイブな仕事の全部をコントロールするならば、だれも私たらを止めることはできないと考えたわけです。そして現在私たらはここにいるのですよ」
chuukyuu 「この代理店を開くにあたっての面白いエピソードがありましたら---」
ホランド「面白いことといえば、この代理店を開くにあたって、この社会では名前の売れているロイス氏のことを大いに宣伝しました。とにかくそれはキャラウェイのことでもなければ、もちろん私のことでもなく、ロイスのことだけが紹介されているものでした。そして、ニューヨーク・タイムズにこの記事が載ったことで、ジョージ・ロイスがPKLを去り、2人のあまり名の知れいないジム・キャラウェイと私を加えた3人で新しい代理店を開くということは、たちまちビッグ・ニュースとして広がりました。
こんな具合に、まず新しい代理店のこと、ロイスのことをあちこちに宣伝してから、いよいよスタートを切ったわけですが、開店初日の夕方4時ごろだったと思います、キャラウェイが心配そうにこういうんです『おい、どうやら失敗に終わるらしいぜ』と。『いったい、どういうことなのか』と私が聞き返すと、彼は『これだけの宣伝をすることは2度とないだろう。このくらい宣伝してから始めたというのに、だれもきやしないじゃないか。だからぼくたちはこれでおしまいなのさ』っていうんです。よい仕事ができるのかできないかのか、ハッキリしない開店当日にして、クライアントを獲得しようというのがそもそも間違った話、というのが彼への返事だったのは無論のことですがね」
chuukyuu 「PKLにいたころは、どんなアカウントの仕事をしていましたか?」
ホランド 「レストラン協会、クェーカ一・オーツ、ヘラルド・トリビューン、ピールス・ビール、ゼロックス、ナショナル航空、ラウンド・ザ・クロック靴下など、ほかにも担当していたと思いますが、急には思い出せません」


ブラニフ航空のアカウントを手に入れた経緯は

chuukyuu 「あなた方は、どんなことからブラニフ・インターナショナルをアカウントの一つに加えるようになったのですか?」
ホランド 「そうですね、あなたがアカウントを新しく加えようとする場合、あなたの会社の優秀なアカウント・マネジメン トの人間が、わが社がいかに良心的な、そしてよい広告をつくっているかを相手に鋭明なさるでしょう。私たちのやり方もだいたいそれに似ていて、これを獲得したいきさつは、初めにブラニフが私たちに仕事のことで問い合わせてきたので、私たちのほうからブラニフに出向いて行って、それまでつくった作品の幾つかを披露し、とくに優秀な広告をつくるために私たちがとっている方法について鋭明を加えました。すると彼らは、私たちの作品が優秀なものであることを認め、私たちがほかのクライアントと同様の働きをブラニフにも示すことを確信し、結局はブラニフが私たちを信じ、いっさいの仕事を任せてくれることになったのです」


1969年10月、ぼくはダラス市にあるブラニフ・インターナショナル本社を訪ねて、話題の人、ハーディング・ロレンス社長に会うとともに、ゲデス広告部長に同社の扱いがWRG(ウェルズ・リッチ・グリーン)からロイス・ホランドキャラウェイ社に移ったいきさつについて質問してみた。

ゲデス部長の答は、ロイス氏の手腕を信じたためであるという一般的なものだったで、さらに突っ込んで、メリー ・ウェルズ・ロレンス夫人の推薦はなかったか?」と問い質すと、「ロレンス夫人とロイス社長は知り合いだから」と答えた。メリー・ウェルズとロイス氏は、DDBで1年ばかりいっしょに働いたことがある。しかし、何かで読んだところでは、2人はそれほど親しくはなかったという。
chuukyuu 「これまで、ブラニフは人びとの注目の的になっていましたね。期待は、ロイス氏とあなたが創るブラニフ・キャンペーンの新しい面に寄せられるのではないかと思うのですが、どうやって応えるつもりですか?」

【メリー・ウェルズ・ロレンス女史が、ジャック・ティンカー在職時代に創ったブラニフのキャンペーン】

単調(プレーン)な空の旅にお別れ



エア・ストリップ(空中ストリップ・ショー)
(chuukyuu注:エミリオ・プッチ氏のデザインによる、重ね着の女性アテンダントの華麗な制服)


ホランド 「その質問はもう少し前に出されるべきものではないかと思うのですが。というのは、すでに私たちは、あなたがおっしゃる新しいものというやつをつくり始めているものですから。とはいえ、確かに私たちはむずかしい立場にいます。
メリー・ウェルズは、航空会社には不可能であると信じられていた大胆な広告をやってのけました。『飛行機を塗り分ける』『単調な空の旅に別れが告げられました』『空中ストリップ』『プッチのコスチューム』---これらはみな彼女の手によるものですが、とくに7色に塗り分けた飛行機の広告は、広告創作活動の真髄とでもいうべきもの、すなわち広告宣伝、販売促進といったものを巧みに織り込んでいる傑作であるといえましょう。私たちは、このアカウントに関する限り、私たちがパイオニアでないことは十分承知しています。
ですから、メリー・ウェルズが進もうとした方向にできるだけ沿ったやり方でやりたいと考えていますし、すでに『ブラニフに乗ったら、それを自慢のタネにしてください』というキャンペーンも完成させました。これは、私たちの期待に十分かなう強烈な印象を人びとに残しましたし、ブラニフがその後躍進的な発展を示した事実を人びとに知ってもらうために、私たちがしなければならないすべてが投入されているキャンペーンなのです」


ブラニフでのニューヨークの日曜日
ブラニフは中立でなければなりません。
ニューヨークが世界の大都市の一つであるということはだれもが知っています。
だから、ブラニフがニューヨークに飛ぶというのは、嬉しいことです。
カラフルなブラニフジェット機は、完全とはいえませんが世界中に空路を持ち、興奮する土地へ飛びます。
空の旅は楽しくあるべきですからこそ、私たちは楽しいものにしたのです。
ブラニフにプッチがデザインした制服の女の子たちがいます。また、ブラニフでは他の航空会社ではロにできないビスコ・サワーとかマルガリータや、食事時にはとても幻想的なてり焼きステーキとかチキン・キエフなどが出ます。
旅を快適なものにする方法はたくさんあります。そして私たちはいろいろな方法を実現しています。
旅行をする時はいつも、旅行代理店にお開きください。
ブラニフもそこに飛んでますか? ブラニフに乗りたいんだけど」と。
なぜって、ブラニフは今年飛躍中だからです。
≪そびえ立つセント・パトリック寺院≫対≪かどを曲ったところの小さな散会≫