(111)ゴーセイジ氏とのインタヴュー(1)
(Mr.Howard Gossage President, Freeman&Gossage inc. Advertising)
ニューヨークとDDBを、ちょっと、離れます。行き先はサン・フランシスコ。山ノ手の閑静な地区の、以前は消防署だった小さな2階建てのビルです。
ゴーセイジ氏と並ぶのは生涯の光栄
ゴーセイジ氏を知ったのは、40数年前、神田の古書店で求めた『ニューヨーカー』誌から広告を切りとっていて、イーグル・シャツのシリーズを見つけた時からでした。
オグルビー氏の黒眼帯貴族のハサウェイ・シャツの広告(右の写真)ほど、イーグル・シャツの広告シリーズは特異ではありませんから、これまで、日本の広告界に紹介されたことはなかったのです。しかし、その単純なレイアウトで組まれたコピーを読むと、企業の姿勢の正しさというか、多くの広告に特有の仰々しさ、騒々しさ、幼稚さがなくて、大人の文章を感じさせました。このイーグルの広告をずいぶん集めて、楽しんでいました(が、広告の世界に背を向けたときに、もう、ゴーセイジ氏ついて語ることはあるまいと断じて、廃棄してしまいました)。もっとも、その時は、コピーを書いた人がゴーセイジ氏とは、知らなかったのですが---。
1966年春、DDBのロン・ローゼンフェルド氏と話していて、
「サン・フランシスコはこの国で最も美しい街だよ。chuukyuu。サン・フランシスコへ行ったら、ゴーセイジ氏に会うべきだ」
「ゴーセイジ氏って?」
「すごいコピーライターだよ。ぼくも尊敬しているんだ。chuukyuu。イーグル・シャツの広告を知ってるかい?」
「知ってる、知ってる」
「あれを創っているのが、ゴーセイジ氏さ」
カール・アリー社のダーフィ社長(近く、インタビューを掲載)も、民主党のマッカーシー上院議員の大統領予備選の広告代理店として忙しい彼が、「ゴーセイジ氏のような偉大なライターと同じ本で並べられるのは、生涯の光栄」と、喜んで取材に応じてくれたものでした。この事実からも、ゴーセイジ氏の名声がしのばれます。
余談はさておき、サン・フランシスコで、フリーマン&ゴーセイジ社へ電話して会見を申しこむと、あいにくとゴーセイジ氏は留守で、ボブ・フリーマン氏が会うという返事。訪ねると、この広告代理店は、古い消防署を改造した画廊の2階にあり、奥まった趣味的な家具の部屋にフリーマン氏がいました。
その後、注意していると、ゴーセイジ氏の名がいろいろと目につきだしました。
適性検査なしに広告界へ入った。
その前に、氏自身の手になると思われる経歴書が送られてきているので、翻訳・転記しておきます。
「ハワード・ラック・ゴーセイジは、フリーマン&ゴーセイジ広告社と、コンサルティング会社---ジェネラリスト社の社長。両社ともサン・フランシスコにある。
シカゴ生まれ。ニューヨーク、デンバー、ニューオーリンズ、カンザス・シティで成長。カンザス・シティ、パリ、ジュネーブの各大学で学ぶ。ペンシルベニア州立大学で招待教授でもあった。
しばしば、ハーパース、サタデー・レビュー、ランバーツの全国誌に寄稿。
1940年空軍入隊。飛行士となる。数年の飛行経験をもったが、適性検査の結果、才能なしと判定されたため、30歳で断念。
その後、広告界に入り、現在にいたる。この時は、適性検査なし。
とくに誇りとしているものは---、
・女優のサリー・キャンプと結婚したこと。
・18歳の時、ガンザス・シティからニューオーリンズまでの1,800マイルをカヌーで下ったこと。ともに、適性検査を必要としなかった」
サン・フランシスコのソクラテス
・1966年11月20日の『ニューヨーク・タイムズ』のビクター・ナバスキーの「広告は、科学か、アートか、ビジネスか?」と題したコラムによると、ゴーセイジ氏は、高級誌『ニューヨーカー』誌の記者から「広告業界にわずかしかいない天才の一人」と呼ばれ、「サン・フランシスコのソクラテス」との尊称をたてまつられていると。
「旅行者がシスティーナ教会の天井にたやすく近づけるように、洪水を起こしましょうか?」という政府に対する抗議広告をぶっぱなして、2つのダム工事を中止させたこともあります。工事中にグランド・キャニオンの数ヶ所が洪水になると予想された工事でした。
氏が、マクルーハン(Marshall McLuhan)売り出しの張本人であることは、日本ではほとんど知られていません。(先日、「テレビはマッサージ」というマクルーハンの理論を日本に紹介した畏友・竹村健一氏に、このこと知ってた?と訊いたら、知らなかったと答えられたので、この記事とインタヴューのコピーを送ろうか、といいました。見たいとのことだったので、自宅あてに送りました。その後会ってないので。感想はきいてません)。
ゴーセイジ氏は、ジェネラリスト社での仲間である内科医で精神病理学者のG・M・フェイゲン博士とともに、トロント大学の無名教授であったマクルーハン氏を6,000ドル(216万円---当時の換算率)から8,000ドルも使って売り出したのです。『メディアの理解』というマクルーハンの著書の装丁のやりなおしたり、『マクルーハンの理解』というエッセイを雑誌に寄稿したり、彼のために3回もカクテル・パーティを開いてやったりして、彼の人柄とメディアに関する独特の見解をコミュニケーション・ビジネスと結びつけてやったのです。その結果は、ご存じのとおりです。
ゴーセイジ氏の変わった趣味はほかにもあって、1967年2月27日から5日間にわたって、例の消防署を改造したオフィスで「サン・フランシスコ;都市国家か?」と題するセミナーを開いています。これは、同地区の地方政治家が行った数回の世論調査のからくりをあばくという目的をもつていました。
同じ年の4月、人類学者A・モンターグ氏によって指導されている成人病医学セミナーをスポンサードしています。
また、ロサンジェルスの一学生のために、ヴェトナムでの戦いが終わるまで「黒ネクタイをしめ、ヘッドライトをつけて走る」という広告コピーを書いてやりもした。これは、その学生が貯めた小遣いをはたいて新聞の広告欄のスペースを買い、個人的なアピールを載せたものです。