創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(102)ポーラ・グリーン夫人とのインタヴュー(1)


こんな形での「広告創造論」が日本で読んでもらえるかどうか、ぼくには答えることがまったくできない------いささか気負った書き出しではじまる前書きの『みごとなコピーライター』誠文堂新光社 ブレーンシリーズ 1969.7.15)は、米国の12人のコピーライターとのインタビューであった。
日本のコピーライターの地位をすこしでもあげておければという気持ちから、ニューヨークをはじめサンフランシスコまで取材してまとめた。
収録したうち5人はすでに紹介ずみ。ポーラ・グリーン夫人は6人目(もっとも、この順番にはなんの企みもないのだが)。

Xマス・パーティーDDBになじんだ


chuukyuu あなたがDDBにお入りになったのはいつですか? また、なぜ、どうやって?


グリーン わたしは、ある広告代理店で働いていましたが、ある夏、会社から休暇をもらって主人の働いたいるところへ行っていっしょに過ごしたかったのです。わたしの主人は学校へ2度行った人なんですけれど、その時やっと学校を終えたばかりでちょうどその夏は子どもキャンプで働いてたの。
ところが会社は、行くんなら辞めて行け、ってお休みをくれなかったのです。
たまたま、その広告代理店では、わたしのことを個人的には好いていてくれてはいたんですが、どういうふうに扱っていいか、どんな仕事を与えていいか、わからなかったらしく、わたしのほうでも、その会社にどうもぴったりこないとというところだったんです。そこで、その会社をやめて、その夏を主人といっしょにすごしたのです。


ところが、夏が終わったら今度は仕事がないということになってしまいました。そこでわたしは、ネッド(Ned Doyle---DDBのD、創業者の一人)がグレイ広告代理店にむいたころから知っていたので、彼に電話しました。
わたしは、ネッドとその仲間を前から知っており、彼らといっしをに仕事をしたいとずっと思ってたんです。
その時、ネッドが助言してくれたのは、ロビンソン夫人を知っているか、ということでした。わたし、ロビンソン夫人をちょっとだけ知っていましたの。ネッドは、それならロビンソン夫人に会わないか、ということでした。
で、自分の作品のサンプルなんかを持って彼女を訪ねて行ったんです。そうしたら、彼女と非常に気があって、彼女はわたしを雇ってくれたんです。


chuukyuu それは、何年ごろでした?


グリーン そう、1956年でした。憶えていますが、わたしがここへきたのは、たまたまクリスマスのころでした。当時コピー・チーフだったロビンソン夫人が電話をくださって、とにかくパーティへいらっしゃいということになって、DDBのクリスマス・パーティに出席して、そこでみんなに会ったのです。仕事をする前に、まずパーティでみんなに会ったのね。


とってもいい雰囲気でしたわ。これは、わたしの12年間のDDB生活を通してずっと変わらず思っていることです。
こんなところが、わたしがここへ入ることになったいきさつなんだけど、DDBに来たかった本当の動機は、わたし、心からこの代理店の仕事を尊敬していました。


いっか、DDBで仕事をしてみたい、DDBで要求されているような水準の仕事がわたしにならやれる自信がある。ぜひともDDBで仕事をしたい、という希望を前から持っていたからなのです。
とくに、キー・メンバーたちがグレイにいたころから知っていましたし、あの人たちといっしょに仕事をしたいと、ずうーっと思っていたの。でも、やはり、わたしに十分な実力がつくまでは、それは実現できなかったのね。
結局、DDBが発足してから6年ぐらい経ってしまってから来たんですが、そのころには、わたしはある程度の自信がついていました。
DDBの要求するようなレベルの仕事ができる、という自信がついたときに、たまたまチャンスがあって、DDBにくることになったんですが、[もしかしたら、あの人たちのほうでわたし個人に興味がないかもしれない。でも、わたしのほうは十分に自信があるんです]という意気込みだったのよ。
DDBでは、始まりは、バーン・アクリランのアカウントのライターでした。ケムストランド社の製品のひとつで、化学繊維ですが、現在繊維業界では非常に重要な繊維になっています。


chuukyuu そのころのDDBの規模は?


グリーン そうね---売り上げが2000万ドルぐらいだったんじゃなかったかしら。大体、10人で100万ドルぐらい稼ぐ割合ですね。
そのクリスマス・パーティに出席していたのが約200人ぐらいで、この中にはもちろんアート関係の人間だけじゃなくて、事務系からアカウント部から全部含めて、会社の人間がおよそ200人ぐらい、という意味です。two hundreds odd と言っても、決して200人の奇妙な人間たちというんじゃなくって、200人あまりの人たちという意味なのよ(笑)。
わたしは、その当時、DDBに初めからいた8人から9人ぐらいのライターの一人だったのです。
その時は、会社もフロアを2つしか使っていませんでした。アートとコピーが25階、管理部門らのほうが26階というぐあいでした(笑)。

ポーラ・グリーン夫人とヘルムート・クローン氏のチームは、DDB
もう一つの成功伝説を加えた。




If you were in the car rental business, would you run ads like this?


あなたがレンタカー事業をやっていたとして、
こんな広告を出したいとお思いになりますか?


自分のことを業界で2位だなんていう広告主はいません。
しかし、大胆に、そして劇的に語られた真実には、迫真力があります。
上の広告のように。
私たちは、このフランクな(だからこそ関心を引くことができる)やり方を基本にしています。
負け犬の訴えは巨大です。消費者の心に、すごく親密な、そしてすばやい反応をひき起こします。
エイビスはそうしました。
エイビス・キャンペーンの成功と、DDBの仕事の多くの成功は、広告の真実を実にみごとに強調しています。
成功する広告には、よいアイデア以上のものが必要だということ。
それは、よいクライアント です。


       ドイル・デ−ン・バーンバック 広告社 


ポーラ・グリーン夫人との、もう一つのインタヴュー記録。
いわゆる「DDBルック」を語る


これまでにアーカイブしたエイビス・キャンペーン
[DDBの広告]エイビス(01) (02) (03) (04) (05) (06) (07)


DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)

デビッド・ライダー氏とのインタヴュー
(1) (2)

ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1) (2) (3) (追補)

ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1) (2) (3) (4) (5) (了)

フィリス・ロビンソン夫人とのインタヴュー
(1) (2) (3) (4) (5) (6)

ジョン・ノブル氏とのインタヴュー
(1) (2) (3) (4) (了)