創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(84)バーンバック氏、広告の書き方を語る(1)

東京コピーライターズ・クラブ編『5人の広告作家』(誠文堂新光社1966.3.25)からの転載。
元稿は『アド・エイジ』誌(1965年4月5日)に、同誌・主任エディターであるデニス・ヒギンスによるインタヴュー。


 バーンバックさん、どうして広告コピーを書くようになったのですか?


バーンバック ええ、じつは、おおぜいの有名人の講演代筆をやっていたのです。知事とか市長とか、おおぜいの有名人です。
また私は、美術にも関心がありました。文章とアートの結びつきは、広告の媒体全体をより効果的に使うためにつくられたグラフィックとコピーというものに必然的に結びつくものと考えます。


 それではお話をもとに戻して---お聞きしたかったのは、なにがあなたをこの仕事に決心させたかということなのですが---。


バーンバック ええと、それはちょっとむつかしい問題ですね。ものごとはすべてはっきりした決心のもとに行われるわけではないと思うのですが---私がこの仕事に入ろうと思ったのは、ある日、突然なのです。
どうしてそうなったのか、自分でもわかりません。
私は書くことに興味をもっていました。また、美術にも関心がありました。そして、書くこととアートを広告の中で行う機会がやってきたとき、その機会を利用しようとしただけなのです。
広告代理店に入るその直前まで、私はニューヨークの世界博で働いていたのです。


 1939年のですか?


バーンバック そう、1939年のそれです。リテラリィ部門のディレクターをしていました。私たちはこれを、調査部と呼んでいたのですが。
私たちは、エンサイクロピーディア・ブリタニカのために世界博の歴史について書きました。いろんな雑誌に多くの論文を書き、私は世界博の絵をいくつが描きました。
そしてその世界博が終わったあと、誰かが、ある広告代理店の人が私を探していると伝えました。そこで、広告界に入るという機械に挑戦することになつたのです。


 その人は誰だったのですか?


バーンバック ウィリアム・H・ウェイントローブ(小さな広告代理店社長)でした。
私はそこでたくさんの広告界のベテランたちに互して戦い、ウェイントローブ氏に頼まれて書いたいくつかのものが認められて、仕事を得ることができたのです。
こんにちの私の地位は、このときに決まったといってもよいと思います。
私は、自分のコピー部門の中に型にはまった人間がいるのは我慢できませんでした。そういう人をいままでやっていた一切のことから引き離しました。そうすることによって、新鮮な見方、外側からの見方ができるようになると考えたからです。
そして、私たちが広告についてなにか新しいことを知ったら、あとで彼らに教えてやりました。


 これは、私がお尋ねしたいと思っていた質問の一つにふれているように思います。
あなたは、広告コピーを書くのはほかの種類のファクチュアル・コピーを書くのよりむずかしいとお考えですか?


バーンバック いいえ。広告の知識とか、なにをいおうとするかということに関しては、ひとつの秩序があるように思います。なにをいうかということが分かるのは後のことです。
広告において第一の、またもっとも大切なことは、オリジナルでフレッシュだということだと、私は思います。
広告の85%は一瞥だにされないということを、あなたはご存じですか?
これは広告に携わる人びとに委託されているハーバード・ビジネス・スクールが集めた統計です。
そこで私たちは、大衆は広告をどう考えているかということを知りたいと思いました。
広告というものがアメリかの大衆に愛されているかどうかを知りたいと思いました。
私たちは、憎まれてもいなかったのです!
大衆は、私たちを無視していたのです。
そこで、私にとってもっとも大切なことは、フレッシュで、オリジナルなことです。こんにちの世界におけるあらゆるショッキング・ニュース、らゆる暴力に対抗できるようにすることです。
なぜなら、広告はされだけのものを持っているからです。
もしあなたが、ひとりも止まってあなたのいうことを聞くようにできないのなら、あなたは広告をむだにしてしまっているのです。
私たちはあらゆることに正しいのです。でも、誰も見てくれないのです。


つづく


バーンバック氏、広告の書き方を語る』
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