創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(39)フィリス・ロビンソン夫人とのインタヴュー(5)「2人の人から影響を受けた」

            Mrs. Phyllis Robinson

創業時からバーンバック氏の片腕としてコピー・チーフを勤めたロビンソン夫人が、バーンバック氏とのコンビぶりを語る。

2人の人から影響を受けた
chuukyuuバーンバックさんがあなたに言った言葉の中で、もっとも印象に残っている言葉は?」
ロビンソン夫人「『コピーを短く!』です。そもそもバーンバックさんといっしょに仕事を始めた頃はまったくの新人でした。その頃、あの人はいろんなことを私に教えてくれました。
時には、私が書いたコピーをじっとながめてから、『すごくいいね。でも。ここから始めたほうがいいんじゃない? 出だしのパラグラフを2つ取り除いてごらん」などといいながら協力してくれました。
私も若いライターと同じように、ついつい自分の言葉に陶酔し、長すぎるコピーを書いてしまって手も足も出なくなったことがしばしばありました。バーンバックさんが助けてくれた理由は、どうやらこの辺にあるらしすいのです」
DDBのほかの人がバーンバックさんから与えられた助言に比べて、ロビンソン夫人の場合はあまりにコピーにつきすぎているようですが、前に引用した別のインタヴューでも、彼女は同じような答えをしています。
問い「あなたがかけ出しのころに強く影響を受けたコピー・チーフかスーパバイザーは?」
答え「2人います。1人は、それとなく教えてくれた人ですが、すごくいい人でした。もうずっと会っていませんが、無料配布の『パーク・イースト』という雑誌を発行していた人で、その雑誌はと当世ふうじゃなく、浮世ばなれしていました。そう、ボブ・アルトシュラーって名前だったわね。私、まだ学生だったんですが、自分で売り込みに行ってコラムをつくってもらいました。それは、せんさく好きな電話の交換手か何かのような娘を想定して、その娘に詩を書かす…といったコラムでした」
この件に関してロビンソン夫人は別のところで、「(大学)2年生の夏、ある上流社会のニュース誌に、週15ドルの仕事を私流のやり方でやるように説得しました。私がしたうちのもっとも創造的な仕事といえば、その仕事そのものをつくり出したことです」(拙著『日本のコピーライター』ブレーン・ブックス)。
「アルトシュラーさんが忠告してくれたのは、そのままには覚えてはいませんが、『このタワゴトをみんな削りなさい』といったような言葉だったと思います。彼がいわんとしていることは、よくわかりました。
もったいぶった文章を書くな。ポイントを突け---というような意味でした。ほかの人から自分の文章について注意されたので、初めはショックでしたがすごく身につきました。だって、それ以前には、だれも私の文章を批評してくれなかったんですもの。
また別のところで彼女は、「私にはよい編集者がついていて、私の書くものからアカデミックな重苦しさを叩き出してくれました」とも告白しています。
どちらの回答も、ロビンソン夫人(結婚前ですから、彼女のほうが正しい表記かも)の文学少女趣味とペダンチシズムを取り去るのに『パーク・イースト』誌のアルトシュラー氏がどんなふうに助言したかをよく伝えています。
「もっと影響を受けたのは、バーンバックさんで、グレイで直属の部下として働いていた頃に、しょっちゅう、コピーを引きしめることと、より生き生きさせることの2つを教えられました」(前出アド・エイジ誌)。
こうして、2人の文章家から指導を受けたロビンソン夫人が、「私は作文コースを受講しなくて…」と残念がっているのは、ちょっと不思議です。
「作文コースでは、毎日作文を書かされる」からよい訓練になるという理由をあげていますが…。(続く

DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
デビッド・ライダー氏とのインタヴュー
(1)(2) 
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1)(2) (3)(追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1)(2)(3)(4)(5)(了)