創造と環境

コピーライター西尾忠久の1960年代を中心としたアメリカ広告のアーカイブ

(35)フィリス・ロビンソン夫人とのインタヴュー(1)「バーンバックさんにひかれてグレイに入った」

            Mrs. Phyllis Robinson

DDBを出ていって各所で活躍しているコピーライターも含めて、DDBのコピー・スタイルをつくりあげた彼女は、コピーライター育成の名手といえましょう。後年はブロードウェイにまで進出し、ミュージカルの歌詞を一夜で書き上げた多才ぶりを示し、マジソン街をアッといわせた。広告代理店の創業社長クラスが指名されるコピーライター名誉の殿堂入り

バーンバックさんにひかれてグレイに入った


フィリス・ロビンソン夫人の名をDDBの人たちは、尊敬の念をこめて、どれほど口にしたことか、数えきりないくらいです。
ぼくの中でも、夫人はやや偶像化されかかった存在であったといえます(ユダヤ教が偶像を認めないことを承知でこの用語を使っています)。
夫人とのインタヴューが成功したのは、僥倖というより、肩の荷が一つおりたというのが実感でした。


chuukyuuバーンバックさんに初めてお会いになったのは、グレイ広告代理店でですか?」


ロビンソン夫人「はい、あの人がグレイのクリエイティブ・ディレクターとして、斬新で趣向をこらした広告をつくっていた時でした。
でも、私がグレイに入ったのは、バーンバックさんといっしょに仕事をするためではなく、セールス・プロモーション関係の仕事をするためだったのですよ。
私は、ある店の全国広告をするために必要な資料を作成していたのですが、バーンバックさんが私の仕事を知ったのがきっかけとなり、あの人の下で働くようになったのです」


chuukyuuバーンバックさんより、先にグレイに入っていたんですか?」


ロビンソン夫人「いいえ、あの人のほうが先輩です。1年か2年・・・。本当のことをいうと、グレイに魅力を感じたのは、あの人がそこにいたからなんですよ」


ロビンソンさんがグレイ社にいたころというのは、1947〜49年といえます。
そのころ彼女は、週130ドルだったと別のところで発言しています。
ついでだから、彼女がグレイ社へ入るまでの経歴をザッと紹介しておくと、少女時代、商店の広告に影響されて、小学校の先生には、大人になったらコピーライターになりたいといったといいます。
小学生の時に、広告の世界に入りたいときめた人物に、ぼくは初めてお目にかかりましたね。


しかし、少女期、思春期に起こったヨーロッパでのいろいろなこと(たとえばソ連の成立<1922>、英国のゼネスト<1927>、ジュネーブ軍縮会議<1927>、世界恐慌<1929>、スペイン内乱<1935>、などの一連の事件と推測)によって、政治的、社会的な問題に興味を持つようになり、広告よりも何かもっと意義のあることをしなければ・・・と考えて、バーナード大学では社会学を専攻しました。
大学時代、またぞろ広告への関心が高まり、「私は大学新聞の広告マネジャーをしていて、地域の小売店にスペースを売り、その取引きの一部としてその店の広告を書いてやっていました」と、彼女自身が告白しています。
大学を出ると、政府関係の公共住宅の仕事につき、結婚後は、ご主人について各地の軍事郵便局をまわります。ナッシュビルのメソジスト出版会館ではコピーを書き始めます。
ご主人は、バーナード大学から学徒動員されていたので、彼女もそのあとを追ったわけ。
メソジスト出版会館での仕事は、牧師たちに送るダイレクト・メールと子ども向けの聖書の広告などだったといいます。
その後、ある服飾新聞に、マイアミで流行しかかっていたファッションについて報告する仕事、次いであるファッション誌の主筆になり、そのあと、ボストンの広告代理店でファッションのコピーを書き、そしてグレイです。

バーンバックさんとはウマがあったから・・・


chuukyuu「当時のグレイには、何人くらいコピーライターがいましたか?」


ロビンソン夫人「よく覚えてはいないけど、12人から15人ぐらいでした」


chuukyuu「グレイで、オーバックス(衣料品専門のマンハッタンの百貨店)のコピーを書いてましたか?」


ロビンソン夫人「うーん、もしかしたら、すこしくらいは書いてたかも。もし、そうだったとしても、お話しするほどのことではなかったと思います。いいえ、と答えておくほうが無難のようです。
とにかく、グレイでは、ボブ・ゲイジさんといっしょによく仕事をしましたよ。彼がバーンバックさんと組んでオーバックスをやっていたのですが・・・たぶん、DDBにくるまで、オーバックスはやっていなかったように思います」


chuukyuu「なぜ、あなたがコピーライターとしてグレイからDDBへ引き抜かれたのですか?」


ロビンソン夫人「うまく答えられないのですが・・・とにかく、バーンバックさんは、グレイ時代の私の仕事をたいへん買っていたらしいのです。個人的にも、広告に対する考え方でも、ウマが合う2人だったのです」


バーンバックさんがグレイをやめてDDBを創業した時、グレイの多くの人が連れてってほしいと希望したそうだが、バーンバックさんはゲイジ氏とロビンソン夫人の2人だけを選んだ・・・というエピソードは有名です。
その理由が、いま、初めて明らかになったわけです。すなわち「個人的にも、広告に対する考え方も、ウマがあった」と。
バーンバックさんの広告に対する考え方については、その代表的なセリフがよく知られています。
「広告は、つまるところ、説得である。説得は科学ではなくて、アートである」
しかし、バーンバックさんは、もう一つの発言をしています。「広告は正直でなければいけない」


これはぼくの推測ですが、ロビンソン夫人とバーンバックさんの考え方が一致したのは、むしろ、後者の見解に対してではなかったかと思います。というのは、ロビンソン夫人の広告の社会に対するかかわりあい観から、そう判断するのです。
そりについては、のちほど紹介するとして、一つの集団が結成される場合の人材相互の吸着力といったものを、この発言から強く感じとります。


別のインタヴュー(1968年7月15日のアド・エイジ誌)によると、彼女は、こう、答えています。


問いDDB設立の件を、バーンバックさんから相談されたのですか?」


答え「(略)新会社を設立するつもりだが・・・と打ちあけられ、『ついてきてくれるかい?』といわれました。なにかすごくエキサイティングに聞こえましたし、それに失うほどのキャリアはなかったので・・・まだまだ初心者でしたから・・・ですから、あの人が私に期待をかけていてくれるなら、それにこたえるべきだし、きっと面白かろうって考えたのです」


>>続く


DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
デビッド・ライダー氏とのインタヴュー
(1)(2) 
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1)(2) (3)(追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1)(2)(3)(4)(5)(了)


続く