創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

03-23 DDBに入社できることは、大変な名誉

DDBでコピー部管理部長をしているメドウ氏は、いろいろな代理店を渡って広告を書くかたわら、いわゆる小説を書いていた人ですが、
chuukyuuDDBをお選びになったのはなぜですか?」
メドウ「もちろん、なぜ私がDDBにはいったか、という理由は大いにありましたよ。
というのは、DDBはその当時、創立からおよそ5年、もうちょっとたっていたかもしれませんが、すでに非常な名声をかち得ていました。
すごく進歩的な、新しい考えを持った代理店だという…。
当時においては、いや今日でもそうですけれども、この代理店のクリエイティブ部門のスタッフの一人になるということは、非常な名誉だったのです」
このメドウ氏に、DDBでは、クリエイティブ部門の人材をどうやって見つけるのかと尋ねてみましたら、「常時100人以上の入社希望者が殺到しています。その中から選ぶのだから、タレントの豊かな人だけ選べます」という返事が返ってきました。
もっとも、幹部コピーライターの一人である(ジャック)ディロン氏が募集広告を見て応募した時には、2,000人の申込みがあったといいます。1960年のことです。
また、新人の採用に関して、メドウ氏と最初に会った時にはこんな会話をかわしました。
chuukyuu「ズブの新人は採らないのですか?」
メドウ「そんな不経済なことはできません」
chuukyuu「不経済?新人なら給料は…」
メドウ「そういう意味ではありません。
新人の給料なんか、どうってこともありません。
新人を教育するために、ベテランの時間が取られるでしょう、それがもったいないのです」
これだと、DDBはズブの新人は採用しないような印象を受けますが、2年後に取材した時には、ニュアンスが少し違う返事をしてくれました。
「初心者を選ぶ場合には、非常に厳選しなければなりません。
注意深く監督して、その中から選ばなければなりません。
これは、とてもキザに聞こえるかもわかりませんけれども、初心者たちは、一つの投資でもありますから、給料も初めは非常に安いんです。
しかし、彼らに対して給料は安くしか払っていませんが、その上の監督者にとっては、彼らを監督指導するということで非常にエネルギーを使うわけですから、会社から見れば、やはり一つの投資ということになります。
そして、いちばん初めのトレイニーというレベルから、ジュニアライター、さらにはシニアライターというところまで育てていかなければなりませんね。
したがって、初めのトレイニーとして新人を採用する時には、非常に注意を払わなければなりません。
そして彼がどれだけ伸びるかということも大いに吟味しなければなりません。
というわけで、おのずから新人採用の数はすごく少なくなるということですね」
かつてDDBで働いたことのある(チャールス)モス氏(現ウェルズ・リッチ・グリーン代理店コピー・ディレクター)が、こう話してくれたことがありました。
chuukyuu「聞くところによると、DDBレブンソン氏の目にとまってコピーライターになったそうですね?」
モス「当時、ニューヨーク大学の夜のコピー・コースで教えていたレブンソン氏を通してDDBに入社することができたのです。
そのコースで、彼は週に一回教えていたのです。
当時、私は職を探していたのです。
DDBのある人から、彼がそのコースで教えていると聞き、そこへ行けば、私は彼を知ることができるし、彼も私を知ることになる、と考えたのです。
そして、いつかは彼がDDBに私を招いてくれないともかぎらないと」
モス氏の場合は、レブンソン氏に直接その才能を認められて入社できましたが、多くの場合は間接的に審査されるようです。