創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-23 常にドアを開いているバーンバック

(ロール)パーカー夫人は、私が最も親しくしているDDBの幹部コピーライターです。
この人は、DDB創業の翌年に入社し、2年間ばかり退社していたこともありましたが、今日まで約17年間DDBで働いてきた人です。
ユダヤアメリカ人…というよりも、オーストリー生まれ、ロンドンで大学を終えたユダヤ系ですが、たまたま来日した1965年(1966年にも来日した)に講演し、バーンバック氏について、次のように語りました。
これは、DDBという現代で最も創造的な組織体の一つである会社を率いているボス、あるいはリーダーの、人並みはずれた高い能力と人柄を、的確に表現している文章です(注:講演の時点で、バーンバック氏は社長でした)。

バーンバック社長のクリエイティブ活動における役割について説明しましょう。
まず二つのことがらが常に私を驚かします。
ひとつは、アメリカだけでも60以上のアカウントをかかえているのに、バーンバック社長はDDBで制作する広告原稿やテレビCMのすべてに通暁しているということです。
他のひとつは、彼は常にドアを開放してだれでも気軽に相談にのってくれることです。
たいへん信じ難いこととお思いになるかもしれませんが、1,300名の社員をかかえた年間1億8,000万ドル(558億円:1ドル=310円換算)の扱いの代理店の社長が、常に事務所のドアを開放しているのです。
もし、質問があったり、彼の承認を必要とするキャンペーンなどができ上がった場合には、ただ彼の事務所に入っていけばいいのです。
途中、邪魔するような秘書もおりません。
ビルは、秘書を半人前かかえているにすぎませんし(一人の秘書をネッド・ドイルと共有しています)、また、この秘書は別室にいますから、彼女に会うことなしにビルの部屋へ入って行くことができるのです。
ただ問題は、ビルに会って意見を聞こうとしている他のクリエイティブマンたちで、レイアウトや絵コンテをかかえてビルの部屋の外で待っていますから、そのために彼に会うのが遅れることもあるわけです。
クリエイティブ関係者と、コピーや写真の問題について意見をかわすために、ビルが何度か新聞記者に会うのを断ったり、偉い人たちからの電話を断ったりするのを、私自身この目で確かめたことがあります。
このようにして社長がドアを開放しておりますと、私たち社員全員にすばらしい心理的効果を与えます。
社長のいる26階の部屋から、社員全員が一丸となって働いているのだという雰囲気が湧き出てきます。
ちょうど2ヶ月程ドイツのデュッセルドルフ事務所へ出張した時のことですが、この時は、ビル・バーンバックから3,000マイルも離れてしまい、彼に連絡するには、手紙で1週間もかかりましたから、彼との個人的接触は失われてしまい、何だか見すてられたような気持になり、よい仕事をするのは、なかなか骨でした」(注:「クリティビティ」第六号・山田正治訳・電通
あるジャーナリストは、バーンバック氏が、その個室にある円形の机にすわり、ドアを開放していることを、驚きを込めて紹介していました。
ということは、アメリカの多くの広告代理店の社長はそうしていない…というわけでしょう。
それにしても、バーンバック氏との個人的接触が失われると志気が下がるとは、まるでダビデを慕ったヨナタンのようです。