創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

03-21 「ほかの仕事でどうだろう?」

幹部コピーライターのリー氏が話してくれた彼の入社のいきさつは、ちょっと変わっていますが、サンプル作品による審査ということと、DDBのクリエイティブ部門のおもだった人たちが、才能のある人材を見つけ出すために、たえず関心を払っていることを暗示しています。
「私は、コロンビア大学でエンジニアリングを専攻しました。
その中でも、特にエレクトリカル・エンジニア ― 電気工学でした。そして、卒業後の数年間を、その方面の仕事についていましたが、将来とも技術者として過ごす気はありませんでした。
決心しまして、ライターになろうと思ったのです。
ライターといいましても、科学記事のライターです。テクニカル・ライターですね。
どういうものを書くかといいますと、いろんなインストラクション・マニュアルなんか…。
たとえば、非常に複雑なレーダー・セットとか、エレクトロニクスの装置についている説明書とか指導書なんかですね。
そういう仕事をしながら、テクニカル・ライターもやめて、いつかはフリーランスのライターになるという計画を持っていましたから、貯金をしていました。
で、結局、フリーランスのライターになったのですけれど、2年半ほどの間に、たった500ドルしか稼げませんでした。
破産してしまいました。
そこで、もう一度仕事を探すことになったわけです。
ちょうどその時に、DDBの歴史上初めて、ジュニア・コピーライターを新聞広告で募集していました。
説明を読んでみますと、DDBの中で仕事をするのではなくって、デパートの中で仕事をする人を求めている…と書かれてありました。
つまり、デパート用のコピーライターを求めていたわけですね。
私は、DDBに手紙を出して、デパートの中で仕事をするのは好きじゃないが、ほかの仕事でどうだろう…と申し出たのです。
DDBからは、考えてみるから作品サンプルを出せ…といってきました。
そこで私は、幾つかのサンプルの中から、これはと思うものを選んで送ってみました。
それがローゼンフェンド氏の目にとまって、彼が、当時コピー・チーフであったロビンソン夫人に推薦してくれたのです。
こうして私は、DDBに入社することができたわけですが、DDBのような広告代理店がエンジニアを採用するなんてことは異例のことで、ほかではちょっと考えられないようなことでした。
広告界には全く関係なかったんですからね、私は―」
募集している人材とは違った男から「ほかの仕事でどうだろう」などといった手紙がくれば、普通なら「今回の当社の意図するところと違うので」と断るところです。
ところが、そんな虫のよい男に対しても作品提出・審査の機会を与え、しかも送られてきたものが広告とはまるで関係のない工業機器の解説書。
それをまた丁寧に読んで「この男は当社にはいないタイプのライターだ」と推薦した幹部コピーライター…。
「いったい、どうなっているんだ」と、頭の堅い人事担当なら思うところでしょうが、いかにも柔軟なDDBのやり方を見せてくれる実例でしょう。