1949年に全米で売れたVW(フォルクスワーゲン)ビートルは2台だったが、DDBが広告キャンペーンを引き受けた1959年には、それまで「広告の助けをあまり借りないで」12万台に達していたと、米国VW社C.H.ハン総支配人は語っている。
もちろん、DDBが創造したVWビートルの広告の偉大な貢献をいうための前置きとしてだが。
DDBによるVWビートルのキャンペーンは1959年から17年間つづいた。
その間に、DDBのクリエイティブ・スタッフでこのキャンペーンづくりに参加した人数は、100人をくだるまい。
しかし、対外的に名前が知られているのは20人ほど。うち半分は、アートディレクター。
当初、エディトリアル誌面スタイルと呼ばれる視覚的フォーマットをつくったのは、もちろん、ヘルムート・クローン氏である。
この人の来歴と性格を反映しているのか、几帳面でどことなく冷静な香りがする。
そうそう、VWビートルの雑誌広告は、原則として白黒…質素で、正直で、家計のことを考えた車、というイメージを、誌面からも匂わせたいためだった。
だから、よほどの必然性がないと、カラー広告は出さなかった。
ヘルムート・クローン時代の3年間にVWビートルのカラー広告は、3点ほどしか目にしていない。
その1点が、引用した広告である。ワッペンやタグをくっきりと見せるには、カラーでないと目立たないからだろう。
10年前、VW第一陣が合衆国に輸入されました。
かぶと虫のような形をした奇妙な小さな車は、無名といえる存在でした。
うたい文句といえば、1ガロンあたり32マイル(レギュラー・ガソリン、並みの運転で)、1日中時速70マイル(112km)でムリなく走行できルアルミの空冷式後部搭載エンジン、家族向きの手ごろなサイズ、そして
買いやすい値段。
かぶと虫は繁殖しました。つまり増えたのです。1954年には、輸入車のうちでトップでした。以来、その座をゆずってはいません。(略)
誌面いっぱいにVWを置き、思っているほど小さくはないよ…と精一杯肩肘張っている感じ。
長時間走行にも疲れなかったとか…。
1962年、マス広告のアートディレクターが、若手のレン・シローイッツ氏に替わりました。
シローイッツ氏によると、バーンバックさんに呼ばれて「君に対して重大な決定をした」といわれたと。
シローイッツ氏が見せたのは、若々しく晴れやかな、そしてユーモアをただよわせたアートディレクションでした。
【訳文】
緑色のフェンダーは、'58年型のもの、
青いボンネットは、'59年型のもの、
ベージュのフェンダーは、'64年型のもの、
ターコイズのドアは、'62年型のもの、
VWの部品のほとんどの部品は、何年型のものでも交換可能、
いつでも手に入ります。
ユーモアたっぷりの例。
(本文はこちらから)
レン・シローイッツ氏は、11年間在籍したDDBを辞めて、コピーライターのロン・ローゼンフェルド氏とともに、自分たちの広告代理店…ローゼンフェルド・シローイッツ&ローソン社を創業しました。
代わってVWのアートディレクション全体を見ることになったのは、ロイ・グレイス氏。
同氏のプロフィールや創造哲学はまだこのブログでは紹介していませんが、1986年に、ニューヨーク・アートディレクターズ・クラブから[名誉の殿堂]入りの指名を受けました。
この人は、視覚の単純化とドラマ性をうまく両立させることが巧みです。
塗装した上に、さらに塗装
(略。4重塗装は、VWのセールス・ポイントの一つ)。
ぼくが大きく唸ったカラー広告は、'70年代の前半に出た、テッド・シェイン氏によってアート・ディレクティングされた、下の広告です。たった1色を加えただけで、VWの楽しさを語りつくしています。
コピーは、マイク・マンガーノ氏。
このころには、もう、DDBの訪問も止めて、別のプロジェクトにうつつをぬかしていたので、ご両人のプロフィールの持ち合わせはありません。
経済について述べさせていただけますか?
(本文はこちらから)
copywriter:Tom Yoggy
art director:Ted Shaine