創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-10 選ばれたのは、ゲイジだった


この点に関する資料は、全くといっていいほど残っていないので、私の推測を話す以外に方法がありません。


(1)バーンバック氏が創業しようとしていたのは、全く新しいタイプの広告代理店であった。
(2)したがって、彼の意志を履行してくれるアーティストのほうが望ましかった。
(3)しかるに、ランド氏はすでにトップレベルのアーティストであり、完成していた。
(4)さらに、新しくスタートするDDBは、まだ海のものとも山のものとも予測がつかず、ランド氏ほどの高給者を雇う余裕がなかった。


大体こんなところではなかったかと思います。
かつてDDBで働いたことのある(ジョージ)ロイス氏(注:ロイス・ホランド・カロウェイ社の共同経営者)が私に話してくれたところでは、
バーンバックがボブ・ゲイジと組んでから、ボブ・ゲイジがバーンバックを偉大にしたんだよ。DDBを今日あらしめたのも彼だ。ビル・バーンバックではない。
バーンバックがずっとポール・ランドと組んでいたら、DDBはこれほどまでにはならなかったろう。若くて才能があり、グラフィックの表現力にすぐれた、知性のあるボブ・ゲイジとめぐり合って、バーンバックは幸福だ。
DDBが今日あるのは、98%までボブ・ゲイジの貢献に負うと思う」

ロイス氏は、ギリシャ系米国人で、DDB時代にはよい仕事をしながらも、強烈すぎる自信のためにアウトサイダー視された人ですから、この人の言葉を全面的に信ずるわけにはいかないでしょう。

「入社して二、三か月後、DDBの半分の人たちが、私をクビにしようとしました。会社をゆるがせるようなことを、かなりやったものですから…」
と、ロイス氏自身も、彼がDDBでは受け入れられなかったことを告白してくれました。

ロイス氏の言葉は、エジソンの業績の記述が持つ共通の欠点を、私に思い出させます。
エジソンにはすぐれたブレーンがついていたし、彼らがエジソンに刺激を与え、かつエジソンの発明といわれているものの中の大部分に参画し、完成したにもかかわらず、後世の伝記作家たちは、そのブレーンについてはほとんど記録していないという誤りを冒しているという事実です。

つまり、DDBを語ることはバーンバック氏を語ることで足りる…としている、現代のマジソン街の伝記作家たちの過ちを、ロイス氏は指摘したかったのではないでしょうか?(注:ロイス氏がDDBで働いたのは、1958年から1959年まで

それよりも、DDBロサンゼルス支社のヘッド・アートディレクターの(サイ)ラム氏が、昼食を共にしながら語ってくれた言葉のほうが、より真実に近いでしょう。

バーンバック氏とポール・ランド氏は、ずいぶん古い親友だったんだよ。しかし、バーンバック氏の考える新しい広告をつくるためには、ランド氏ではなく、ゲイジ氏が必要だったのだ。ゲイジ氏でなければならなかたのだ」

ラム氏は、DDBの創業時である1950年ごろ、ゲイジ氏のアシスタントを務め、その後、太陽と土の都…ロサンゼルスへ移住した人です。もっとも、太陽を求めたのはラム夫人だったそうですが。