創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

02-07 ペア・チーム誕生の必然性

このペア・チームがどうしてできたかを、ゲイジ氏はこう話しています。
「1949年、DDBが発足した当時のアメリカの広告界には、コピーライターとアートディレクターがチームで仕事をするということはほとんどありませんでした。

しかし私たちは、それ以外のやり方で仕事をするなど、思いもよりませんでした。
当時私は、ビルか(フィリス)ロビンソンと一緒に仕事をしました。
一片のコピーだけが私に渡されるなんてことは、絶対にありませんでした。

先入観を持ったレイアウトをつくることを要求されませんでした。
コピーライターのへたくそで小さな絵を添えた、例の黄色い紙(注・リーガル用箋と呼ばれているリポート用紙)を受けることもありませんでした。
私は、この13年間(注1963年の講演当時で)、本当に幸福でした。
仕事をするには、これ以外の方法はないように、私は思えます。

もちろんコピーと一緒でなく、ひとりでアイデアを練ることもできます。
でも、お互いに尊敬する二人が、同じ部屋にすわってやるほうが、アイデアがよくわくように思えます。
そこでは、一つのアイデアについて語ることによって、もう一つのアイデアを導き出し、それがまた次のものを生みます。

アートディレクターは、もっとよいアイデアが出てきた時は、今持っているアイデアがどんなによいものでも捨てる勇気を持たなくてはなりません。コピーライターもそうです。

私は、コピーライターがビジュアル・アイデアを思いついても、アートディレクターが見出しを書いても、ちっともかまわないと思います。
それは、二人の共同作業であり、その仕事の栄誉は二人で分かつべきです。
またもし、その仕事がまずいものであったら、それは自分たち二人の責任でもあるのです。
私は実際、アイデアがどこから出てきたものか、気にして見たことはありません。
一緒にやったコピーライターのものか、あるいは私自身のものなのか」(注・1963年、モントリオールADCでの講演)。

第一章でお話ししたように、DDB創業の時に、たった三人しかいなかったクリエイティブ部門で、ペア・チームは自然発生時にできたもののようです。

VWの当時の担当ライターだったレブンソン氏に尋問した時も、似たような返事が返ってきたので、そう考えていいと思います。

西尾「DDBは、コピーライターとアートディレクターのペア・チームで広告をつくっることで有名ですが、これは、DDBが考え出したやり方ですか?」

レブンソン「ええと、これは大変な質問ですね。
私は、DDBがこの方法を考え出したとは思いません。
ただ私たちがこのやり方を採ったのは、一つよりも二つの頭が集まればもっといい考えが出るだろうということで、アートとコピーが一緒に仕事をしようというのを考え出したわけです
DDBを設立したバーンバックさん、それから(ボブ)ゲイジ、(フィリス)ロビンソンが、最初に一緒に集まって仕事をしてみた、そうしたらこれがとてもうまく行ったんで、それじゃこのまま続けて行こうじゃないかということになったんですよ。
今ではたくさんのアメリカの広告代理店がこの方法を採っています。」