創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-05バーンバック氏が語った経歴 

バーンバック氏に過去を語らせたただ一人のジャーナリストは、アド・エイジという専門雑誌のデニス・ヒギンズ記者です。

バーンバックさん、あなたはどういうことから広告コピーを書くようになったのですか?」

バーンバック「ええ、じつは私は、おおぜいの有名人の講演代筆をやっていたのです。知事とか市長とか、おおぜいの有名人のです。また私は、美術にも関心がありました。
私は、文章とアートの結びつきは、広告の媒体全体をより効果的に使うためにつくられたグラフィックとコピーというものに必然的に結びつくものと考えます」(注・東京コピーライターズクラブ編『5人の広告作家』誠文堂新光社刊 1966.3.25)


「おそらく、だれでも、ある時期に人や事件によって影響されるものと思いますが、あなたはコピーライターとしての人生で、何かそんな影響を受けたことがおありですか?」


バーンバック「ええ、それはもうたくさん。私はむかし、音楽の学生でした。そしてすばらしい個性を持った音楽の先生を持ちました。長じてその先生の手ほどきを受けるようになって、私は自分のものの見方というものを形づくるようになりました。
あなたもおわかりのように、今までにあなたの上にふりかかってきたことの結果として生じたものがあなたなのです。
だから、ここで、どれが大きな影響を与えたということは私にはできないのです。それは、これらすべてのものの総合なのですから」(同)
人種に関する問題について論ずるには、日本人はあまり適格ではないように思うのですが、少し触れておく必要がありそうです。


バーンバック氏は、学歴について「むかし、音楽の学生でした」といっています。これは、音楽学校へ通ったという意味ではなく、「すばらしい個性を持った音楽の先生」とは、母親か父親を指していると、私は推測しています。


というのは、ユダヤ人の多くは、詩作の才と音楽的な才能に恵まれているからです。
このことの証明のために、旧約の詩篇の大半をつくったユダ支族のダビデ王を引き合いに出すまでもなく、私の友人のユダヤ人たちがきびしい音感とすばらしい文章力を持っていることからの私の独断…と、ここではしておきましょう。


要するに、青少年時代のバーンバック氏は、文才と音楽性に恵まれ、美術にも関心のあったアーティスティックなユダヤ系の若者にすぎなかったのです。