(2)デビッド・ライダー氏 単独インタヴュー02(承前)
6分間は5分より長く、10分より短い、1時間の10分の1です、読むのは6分。しかしいつか、この道草について60分考えることになります。あるいは6日間…
(このインタヴューは、旧著『劇的なコピーライター』(誠文堂新光社 1971年3月10日刊)に収録されたものです。インタヴューは1970年4月に、DDBのライダー氏の個室で行われました。当然、氏のチェックと加筆・削除ずみです)。
>>前編の「デビッド・ライダー氏 単独インタヴュー01」はこちらから。
DDBから採用通知がきたたのは6カ月後だった
chuukyuu「16年前(1954)にDDBへお入りになったと言われましたが、その前は何をしていらっしゃったのですか? DDBへお入りになった経緯をお話しください」
ライダー「16年前の私は、ある小さな広告代理店のコピー・チーフをしていました。そこには5年いたのですが、当時の私はすでに35歳になっていながら一向にぱっとせず、なんとなく活気に欠ける会社にただ、甘んじているばかりでした。
そのうちにどうしてもそこにじっとしていられなくなり、ついにはいつまでもここにいたって始まらないと考えるようになったのです。
それでも私は、かなりいい仕事をしていたのですよ。
でも、もっと自分を磨きたかったのです。
そこを辞めて、私はウォルター・ローウェンと呼ばれる私設の職業安定所を訪ねました。当時この安定所は広告関係の仕事の斡旋では最大といわれていたので、とにかく履歴書だけ置いてきました。
3カ月ほどしたある日、そこの担当者から電話で、DDBの人が一度会って話が聞きたいといっていると伝えてきました。
早速、サンプル・ブックを持って出かけて行ったのですが、そこで私を待ち構えていたのが、後でフィリス・ロビンソンとわかりました。
なごやかなインタヴューが終わり、サンプル・ブックを置いてDDBを出ました。
1週間後にフィリスから呼び出しの電話があったので、これはもしかすると、という期待に胸をはずませて再びDDBへ出向いたら、あにはからんや、前に置いていったサンプル・ブックを持って帰るように言われただけでした。
フィリスからの採用の手紙を受け取ったのは、その後なんと、6カ月も経ってからだったのです。たかが一つの仕事のために半年も待たされてしまったのです。
後になって、DDBはコピーライター一人を採用するのにも何か月もかけるということを知ったのですが、当時の私は何がなんだかさっぱりわからなくて…。
ちょうどそのころ、DDBは新しくコピーライターの補充を考えていた時で、その第1号に私が選ばれたというわけだったのです。
chuukyuu「あなたがDDBへお入りになった頃、すでにDDBはこの業界では評判の良い広告代理店とされていたと聞いたのですが、そうでしたか?」
ライダー「そうです。すでにみんなによく知られた広告代理店になっていました」
「家貧しくして孝子出(い)ず」のたとえ
chuukyuu「話題を変えます。いつ、どこでお生まれになりましたか?」
ライダー「ニューヨーク市で生まれました」
chuukyuu「育ったのも?」
ライダー「はい。生粋のニューヨクっ子です。『ボーン・アンド・ブレッド・イン・ザ・ブライヤー・バッチ』というわけです。この意味、おわかりですか?」
chuukyuu「いいえ」
ライダー「どんなに巧みに、そして正しく音楽を操るコピーライターでも、スラングや特有の方言、古くからの諺といったものを知らないうちに使っていることがあるのですが、この『ボーン・アンド・ブレッド・イン・ザ・ブライヤー・バッチ』もその一つで、トゲが多いとか困難なという意味です。そうですね、たとえば、あなたもご存じのニューヨークの町のようなものです。そこで生活するのはむずかしいですからね」
chuukyuu「それで、どんな幼年時代だったのでしょう?」
ライダー「とても貧乏でした」
chuukyuu「性格は?」
ライダー「とてももの静かな子でおとなしく、恥ずかしがり屋でした」
chuukyuu「どんな種類の本を好んで読みましたか?」
ライダー「ピノキオが気に入ってました」
chuukyuu「コピーライターになろうと決心なさったのは幾つぐらいの時でしたか? その理由は?」
ライダー「高校進学の問題にぶつかった時です。そう、ちょうど、あの大恐慌の、1932年のことです。ところでchuukyuuさん、あなたはいま、お幾つですか?」
chuukyuu「39歳です(注:38年前ですからね)」
ライダー「私は51歳ですが、さて、自分で行くべき高校を選び出さなければならなかった時、家はひどく貧乏だったんです。
父は職につくことができず、兄や姉たちも、仕事を探していました。
ですから高校を卒業したら私もどこかで働かなくては、といった義務感みたいなものをその頃から持っていました。
大学などには行かせてもらえないということは、百も承知していましたし、高校を出たら働くのが当然とも思っていました。
そこで私は、なにか技術を身につけておいたほうがいいと考えて、速記の中でもとくに法廷速記述を勉強するためにニューヨークにある商業高校に進むことに決めました。
法廷速記人の仕事がどんなものか知ってらっしゃいますか?」
chuukyuu「映画の法廷場面で見ています」
ライダー「高校で一所懸命に勉強し、速記のほうもかなり腕をあげたのですが、そのうち、学校新聞に原稿を書くことに興味を持つようになり、ついには編集長という大役を引きうけることになりました。
そうしているうちに、時どき、翌日までに印刷所へ原稿を届けなければならないということがあったりしたために、ストーリーを早く書くことを覚えました。これはよい訓練になりました。
高校を卒業する頃には、1分間に150ワードを書き留める有能な速記者に、一方ではそのまま十分社会で通用するライターになっていました。
ところが学校を卒業してみると、これは1936年のことなのですが、世の中はひどい不景気で、仕事を探すのは不可能に近い状態でした。やっとニューヨーク・タイムズの求人欄で見つけたのが、週給12ドルの新人コピーライターの口だったのです。
こうして私は、1936年にコピーライターとしてスタートを切りました。
それ以来、現在にいたるまで、ずっとコピーライター一本槍で過ごしてきました。
コピーライターなどやめてしまおう、そう考えたことはただの一度もありません。ただひたすらにコピーライターの道を歩んできたのです。
いまでも私の生活の半分以上はコピを書いたりコマーシャルを書いたりすることですが、それを不満に思うことは決してありません。それどころか、大いに満足していますし、喜びであるとも感じています。
ただ、人に指示を与えるだけですむような仕事など、やりたくありませんね。
以上が、1936年以来、軍隊で生活した3年半を除いて、今までずっとつづけてきた私の仕事の話です」
広告賞は信用できない
chuukyuu「あなたは各種の広告賞には興味がおありにならない…と聞いていますが、ほんとうですか?」
ライダー「ええ。1962年以後、1回もそういったコンペに参加したことはありません」
chuukyuu「あなたの広告賞嫌いの考え方について、バーンバックさんが何かおっしゃったことがありましたか?」
ライダー「いいえ、一度もありません。バーンバックさんは、ほかの人の権利を尊重しますからね」
この件に関して、ライダー氏は、インタヴューではもっとたくさんの見解を、厳しい口調で話してくれました。が、書き起こし原稿を送ってチェックを求めた段階で、そのすべてを削除してきました。多分、公表することでほかの人が傷つくことを懼れたのでしょう。
しかし、もうすこし紹介しないと、氏の広告賞嫌いの真意が正しく理解されないと思うので、あえて要約してみます。
1962年のある広告賞の審査で、自信のあった氏の作品が受賞を逸しために、氏の心中に審査員不信任が芽生えると同時に「彼らにおれの作品の良さがわかるか」との思いになったようです。
賞なんて、どうせ人間が決めるものですから、大なり小なり不公正と見落としはありえます。
そう悟ってすべての広告賞への不参加を決めたライダー氏の態度は潔いといえますが、受賞をきっかけにして世に出る人も少なくないわけで、一概に広告賞無視をすすめることはできません。
とくにライダー氏の場合は、コピーライターとしてすでに名をなしていたし、DDBという恵まれた環境にいるわけでもありますから。
ライダー「もっとも、私自身は広告賞を無視していますが、いっしょに組んで仕事をしたアートディレクターが応募するのまでは止めようとはしません」
というわけで、各種の広告賞の年鑑類でライダー氏の作品にはあまりお目にかかれません。
バーンバックさんの助言「恐らく彼は正しいだろう」
chuukyuu「バーンバックさんがあなたに与えてくれた助言の中で、最も重要とお考えになっている言葉は?」
ライダー「バーンバックさんが以前一度、私に打ち明けてくれたことがあります。バーンバックさんはいつもシャツのポケットに1枚の小さな紙片を入れており、それには、誰かと話しをする時にはいつも心にと留めている3ワードが書かれていると。
その3ワードは、"Maybe he's right." 『恐らく、彼は正しいだろう』というものです。
SANE(核使用規制全国委員会)のスポック博士の広告についてのあるエピソードを思い出しました。
この広告のコンセプトと『スポック博士は憂えている』のヘッドラインを考えだしたのは私たちなのですが、ボディ・コピー(本文)のほうは、私のすすめに同意したスポック博士が自身で考えてつくったものです。
なぜ私が博士にご自身の手で書くように勧めたかというと、博士には有名な著書という実績があったばかりでなく、この広告こそ、ご自身で書くべきだと強く感じていたからです。
当時、スポック博士はウェスタン・リザーヴ大学の児童心理学の教授でした。
1週間ほどかけて書いた原稿を送ってみえたのを読んでみると、子どものことは一切書かれてなく、あまり感心できる内容ではありませんでした。
当時のスポック博士は、とくに子どもに関することで多くの人びとから高く評価されていたのです。
私は、オハイオ州のクリープランドにいた博士を電話口に呼び出し、こういいました。
とてもよく書けたコピーではあるが、核実験が子どもたちに悪影響をおよぼすことは、ぜひともコピーの中で語られなければならない。
にもかかわらず、ここに書かれている大半は、アメリカ合衆国とソ連についての話と、両国の核実験禁止の必要性の話で占められている、と。
核実験が子ども与える悪影響については控えたほうがいいと主張する博士は、電話では長くなる、近くテレビ出演のためにニューヨークへ行くから、その時にじっくり説明する、と電話を切りました。
何日かしてやってきた博士を、バーンバツクさんに特別に出席してもらい、例の有名な円卓(いつもドアが開かれているバーンバっク氏の個室の丸テーブル)の席につきました。
バーンバックさんが博士に尋ねました。
『なぜ、先生は核実験が子どもにおよぼす悪影響ついてお書きにならないのですか。核実験は明らかに子どもたちに、とくにまだ母体にいる赤ちゃんにたいへんな害を与えるとは考えないのですか』
すると博士は、『確かにそれが疑う余地のないことは十分に承知していますが、広告でそうした事実を訴えたくないのです。
理由は、長いことの小児科医としての経験から、そのことを知った妊婦の恐怖が手にとるようにわかるからです。
よかれと思ってしたことが、逆に悪い結果を招くのではないかという懸念が離れないのです。
核実験の悪影響を知らされた妊婦は、生まれてくる子に手足がないのではないか、脳障害があるのではないかといった不安にとりつかれることを懼れるのです。
ですから、そういった種類のコピーは書きたくない」と本心を打ち明けてくれました。
ここではじめて私は、そうしたやり方では百害あって一利なしと知りました。
バーンバックさんと博士とのすばらしいやりとりがしばらくあって、博士が言いました。
「机と紙をお貸しください。妊婦を驚かすことなく、しかも私たちがほんとうに伝えたいとおもうことを新しいコピーにしましょう」
博士は、私が提供したオフィスで、このコピーを書き上げたのです。
Dr.Spock is worried
【訳文】
スポック博士は憂慮しています
もし、あなたがスポック博士の本で子どもを育てたことがおありなら、博士があまり小さなことにはこだわらない方だということをご存じと思います。
博士は、勤め先のオハイオ大学から、大気圏内核実験の再開について、つぎのようなメッセージを送ってきました。「私は憂慮しています。
過去の実験の影響だけでなく、果てしない将来の実験の見込みについてもです。
実験が重なるにつれて、子どもにたいする悪影響もふえます…米国でも、世界の国々でも。こんなことをする権利がいったい誰にあるというのでしょう。
そんなことは政府に考えさせろ、という人もいるでしょう。その人たちは政府がこれまでの歴史の中で犯してきた悲劇的な大間違いのことを忘れているのです。また、よりすぐれた軍備が問題を解決してくれるという人もいます。その人たちは正義の強さを信じている人びとを軽蔑します。
その人たちは、あのかよわい理想主義たちが鉄の布となってインドからイギリス人を追い出したことを忘れているのです。どの道をとっても、危険はあります。もし、将来に横たわる大きな危険をすこしでも少なくする希望があるならば、私はあえて今日の危険をとります。
もし、私が将来、何かの誤算で滅ぼされることがあるなら、私は、幻の要塞に座ってなすすべもなくただ敵を非難している時よりも、世界の協力を求めるリーダーシップをとっている時に殺されたいとおもいます。
モラルの問題としても、私はすべての国民が自分自身の考えを持つ権利だけでなく責任も持っていると信じます。
医学博士 ベンジャミン・スポック」スポック博士は、核使用規制全国委員会のスポンサーにーなりました。
以下、SANE(核使用規制全国委員会)が何を表すかという簡単な説明とほかのスポンサーを列記。
DDBのみごとなコピーライターたちとの単独インタヴュー(既掲出分)
ロバート・レブンソン氏とのインタヴュー
(1) (2) (3) (追補)
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタビュー
(1) (2) (3) (4) (5) (了)