2007-06-01から1ヶ月間の記事一覧
このシリーズ…VWビートルの広告(11)は、水飢饉に悩むニューヨーク市民に[節水]にことよせて、空冷式エンジンのメリットを訴えたものでした。 なに、水冷式エンジンに注入されている水なんて、たいした量ではないんです。 ですから、ニューヨークっ子は、V…
ローゼンフェルド氏は、 「できるだけ校閲はしないようにしています。ライターのイニシアチブをぶちこわしてしまうからです。私は悪いところについては大体の感じで指摘し、そのあとは、彼自身の言葉で書き直させるようにしています。DDBでは、こうしなけれ…
1960年代後半から70年代へかけて、DDBの取材のためにニューヨークへ、春秋2回ずつ通っていたときのある年、マンハッタンは極度の水不足に襲われ、ホテルの洗面所には[節水 SAVE WATER]のステッカーがべたべたと貼られていました。 『ニューヨーク・タイム…
たくさんの幹部コピーライターを育て上げてきたロビンソン夫人は、どうやって教育したかとの質問に、 「まず、練習させることを第一に置きました。私たちはできるだけたくさん彼らに書かせましたし、きびしく教育しました。 DDBの効果的なやり方は、むろんア…
広告をつくるということは、製品に人格を与えることだともいえる。 そりゃあ、お互い人間のことだから、好きな性格のも、好感のもてない奴もいるさ。 親友になったら、目の動き一つで、相手の気分が察せられる。 バンパーとフェンダーだけだって、あ、彼だっ…
VWの広告の歴史の中で、これは、特別に記憶される一つになるでしょう。 あなたは、ここで見た、アイデアの凄さと勇気について、今日、誰かに話したくなるはずだからです。 とくにお見せるものはありません。 '62年型フォルクスワーゲンはいままでと同じ。 …
VWビートルの広告は、18年間に300点以上も創られたはず。 当初から、写真はほとんどモノクロ。 質素で経済的な車であることを、色彩の面からも訴えるためです。 ほかのすべての車の広告は極彩色のカラーなのに。 例外もあります。 カラーのほうが、いわんと…
前回のVWビートルの広告(6)では、検査員は8,397人、1日にハネられるビートルは220台でした。 6年後のこれでは、1,104人と225台になっています。 それだけ生産が増えて、増員、増量されたのですね。 もっとも、メキシコの工場の閉鎖をもって、ビートルの生…
もう一人、グリーン女史の答を紹介しましょう。 「そうね...(笑)特に教授方法といえるかどうかわかりませんが、問題があったら、とにかく、なんでも私のところへ持ってきて話し合いましょうといっています。なるべく私も、彼らの才能を育てるように努力し…
20世紀最高のキャンペーンの一つ…といわれているVWビートルのシリーズを紹介しています。乗用車の広告には、ボディはピッカピカでチリ一つついてなく、どこを走ってきたのか車輪には泥のひとかけらもつけない車と、湖畔に寄り添うカップルの美しい写真が使…
これに対して、アメリカ的教育法といわれているものは、テキストによる体系的基礎教育訓練とその実習の反復で、一定水準まで短期間に引き上げて行く能率的なやり方です。 DDBの教育はどうなっているのでしょうか? 幹部コピーライターのレブンソン氏に聞いて…
見えない利点を見せる---たとえば、組み立て中や出庫前の検査もそう。 それらを目に見える1個の形にしてみせたのが、このVWビートル。 フォルクスワーゲンの検査は、こんなに何回も行われます これらは、私たちの小さな車が、工場で受けなければならない「…
VWビートルのキャンペーンのうち、燃費と価格をテーマにしたものとそのボディ・コピーを除くと、ニュービートルにそのまま転用できるものが多い。 いや、ニュービートルとは限らない---。 VWはいつも工場で小さなトラブルに 巻きこまれていますこのがらく…
[6分間の道草](46)で創業者の一人、 [ネッド・ドイルDDBのやり方を語る(3)]に、DDB創業から10年間のクライアント・リストを揚げておきました。 VW社がきてから6年間をあげてみます。いい広告がいいクライアントを魅きつける好例です。 1959年 VW社 乗…
VWビートルは、1949年に米国で2台売れた。 1959年、ドイツからVW米国社へ責任者として派遣されたカール・ハン氏は、広告キャンペーンをDDBにまかせた。 DDBはVWビートルに人格を与えた。 その結果…米国でのVWビートルの売り上げは、 1958年 7…
すぐれた仲間の存在は刺激と同時に教育的意味も持っているようです。パーカー夫人は、彼女が入社した創業間もないころのDDBについて、 「私は、とても幸運だったのです。私がDDBにはいった当時は、バーンバックさんとロビンソン夫人とゲイジさんが主要なキャ…
38年前の1969年の秋、この広告を見たときは、鉄拳が、ガッツンと頭の芯まで届いた気分だった。 【訳文】 イケメンじゃないけど、性能は非凡(または) 不恰好ですが、運んでってくれますよね アポロ11号の月面着陸は、1969年7月20日でした。多くの人がテレビ…
前DDBアカウント担当重役 ネッド・ドイル(注:1969年に引退) Mr.Ned Doyle これは、『DDBニュース』1969年7月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。 DDBの…
前DDBアカウント担当重役 ネッド・ドイル Mr.Ned Doyle (注:1969年に引退) これは、『DDBニュース』1969年7月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。 <
前DDBアカウント担当重役 ネッド・ドイル Mr. Ned Doyle (注:1969年に引退) これは、『DDBニュース』1969年7月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。 DDB…
前DDBアカウント担当重役 ネッド・ドイル Mr. Ned Doyle (注:1969年に引退) これは、『DDBニュース』1969年7月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。 自分…
このゲランの〔ミツコ〕は、DDBの作品ではありません。 リヴィ・パンの人種シリーズに、なぜ、女性モデルが使われなかったかを検証するために引用しました。 香水〔ミツコ〕は第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパに平和と繁栄が甦ってきた1921年に発表された…
参加者 コピーライター 荒尾(A) コピーライター 金丸(K) コピーライター 藤枝(F) A 「6分間の道草」シリーズ、DDBを支えたさまざまな人々の横顔が見えておもしろかったけど、特に同じコピーライターたちについて、どう思う? K スタンリー・リー氏は、…
また、幹部コピーライターのディロン氏は、DDB入社前に10年ばかり他の代理店でキャリアを積んできた人ですが、「私が入社した時に、競争相手は、外にいるのではなく、この建物の中にいる、といわれましてね。最初は戸惑いましたが、だんだん慣れてしまいまし…
Mr. William Taubinこの掲載作品は、ビル・トウビン氏が、1981年にニューヨーク・アートディレクターズ・クラブから[名誉の殿堂]入りを贈られた年の同クラブの年鑑から転載した(オリジナルは多色刷り)。 代表作品としは、すでにご存知の大西洋の写真を破っ…
Mr. William TaubinDDBでは、古参のアートディレクターであるビル・トウビン氏は、たとえていうと、牛のような人。いつも茫洋として牧草をたべているが、その牛乳は濃くて新鮮---といって、トウビン氏が女性的というのではありませんよ。男っぽさは会った瞬…
Mr. William TaubinDDBでは、古参のアートディレクターとして、落ち着いた感じの、しかし、どことなくユーモアがただようキャンペーンを手がけています。大人のデザインといったらいいでしょうか。リヴィパンの人種シリーズもその一つ。 自身は、ユダヤ教徒…
Mr. William TaubinDDBの副社長兼アート・スーパバイザーのビル・トウビン氏のスピーチ…「あまりにも無秩序な」は、2007年5月1日から5回にわたって[6分間の道草]に掲載しました。 >>「あまりにも無秩序な」ビル・トウビン氏 スピーチ (1) (2) (3…
これは、DDBだけに限ったことではありませんが、アメリカの代理店のクリエイティブ部門の幹部や中堅クラスの社員は、ほとんど個室を与えられています。その個室の壁に、自分の作品だとか、気に入った写真、絵などを1面にはっている人が多いようです。 もちろ…